小金牧
わたしたちが住む千葉県北部地域の土地は、下総台地と言われ、富士山の火山灰が積もってできた関東ローム層という酸性の強い土地です。
そのため、農耕には適さない土地が多く、昔は自然のままの原野が広がっていました。
そうした原野・荒野に、周辺村落から逃亡した馬や、捨てられた病傷馬などが原野で繁殖し、その結果自然発生的に牧場のようなものができたようです。
かつては牛馬の放養飼育地のことを「牧」と呼んでいました。
わたしたちが住む千葉県北部には昔、いくつ位の牧があったのでしょうか。
現在残っている最古の古書で、平安時代初期に編纂された「延喜式(927年)」(平安時代の法律)の中では、高津馬牧・大結馬牧・本嶋馬牧・長州馬牧・浮嶋牛牧の5牧が記されており、この下総台地一帯には古くから牧場があったことがわかります。
徳川幕府は、馬牧の経営や馬の育成に力を入れ、野馬を近郊農民達にも売り払ったりしていました。そのため幕府は、「小金牧」「佐倉牧」の2つの牧をつくりました。
牧は徳川幕府の終結と共に廃止され、新田開発を目的として、牧野が開拓されました。
将軍の鹿狩
馬は野で育てて、野で捕まえる形の放任経営の馬牧であり、江戸時代正式に幕府の牧として定められましたが、計画的かつ積極的に馬の飼育が行われていたようではなかったようです。
そのため、牧とはいえ、ごく自然のなるがままの形で、得るものを得られるときに得ていたという方式で、野馬は牧場外の村や畑に侵入して耕作物などを荒らしました。
また、自然のままの藪林のため鹿や猪、兎、鳥類なども繁殖し、それらによる鳥獣被害も大きいものでした。
このため、各村々は、村境に高く堅固に築いた野馬除土手や深く掘った野馬堀で自衛しましたが、完全に防ぎきれず農耕被害に大変苦しんだようです。
そのうち、年貢が減るなど幕府や旗本たちもこれを見過ごせなくなり、八代将軍徳川吉宗の小金原御鹿狩りが行われることになります。
小金牧の放牧場の地域は、別に小金原とも言われ、ここで八代将軍吉宗を始めとして、3人の将軍が4回にわたって盛大に鹿狩りを行いました。
鹿狩は、小金牧・中野牧の鳥井戸原を舞台として、享保10年(1725年)を第1回として、同11年(1726年)に八代将軍吉宗、寛政7年(1795年)十一代将軍家斉、嘉永2年(1849年)十二代将軍家慶により行われました。
寛政7年小金原御狩之記図会(興風図書館蔵)や嘉永2年小金野御鹿狩ニ付壱式之控(興風図書館蔵)、御鹿狩間数之写(興風図書館蔵)からも当時の状況が伺うことができます。
下総牧のその後
明治2年になると明治政府は、維新事業に成功して、一番最初に手がけた事業が下総牧(小金牧、佐倉牧)などを廃止し開墾入植させる計画でした。東京市中には、全国から集まってきた旧武士階級の人たち、全国から東京へ行けば何か職があるだろうと上京してきた無職の人間たちがたくさんおり、そういう人たちが社会不安の種になるということもあって、約8,000人が入植開墾させられました。
政府から20万両の援助を得てこの事業を担当したのが三井八郎右衛門を総頭取とする開墾会社で、会社は東京の富裕な商人たちの出資金で組織されました。
しかしこの事業は失敗して明治5年に解散し、会社は政府の方針に沿って、入植者1戸当り3反5畝を無償で与え、開墾会社出資者は出資金一円当り一反歩の割で旧牧野を割当てられます。
この開墾殖産事業の結末は、激動期という時世の理由もあり、また当局の当初の不手際も手伝い、地区によってはのちのちまで困難な、複雑深刻な問題を残しました。
そして、13の開墾集落が出来まして、入植地は入植順の番号に因んだ地名がつけられました。
1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧
2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧
3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧
4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧
5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧
6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧
7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧
8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧
9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧
10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧
11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧
12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧
13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧
庄内牧(野田の小金牧)
江戸初期、小金牧には7牧ありました。庄内牧、高田台牧、上野牧、中野牧、一本椚牧、下野牧、印西牧です。庄内牧は、現在の野田市内にありました。
江戸時代初期までは牧として機能していましたが、他の牧のような高低差が少ない平坦地で開発が容易であるために、新田開発が行われました。
そのため、野田の牧は早い段階で幕府牧としての機能を終えました。
江戸時代の庄内牧は北部の上野と南部の下野に分かれていましたが、これは江戸初期の新田開発(花井新田など、いわゆる七ヶ新田の開発)によって、中央部が牧から村になり、牧が野田から消滅しました。 この地域の新田開発は、寛文・延宝期、享保期と寛延期の3度、行われています。
寛文・延宝という時期は、江戸川低湿地帯の開発が一段落し、深井新田、平方新田、岩名新田などが誕生して、下総台地内陸部の牧周辺が開発の対象として進められた時期です。
小金牧の開発は、寛文・延宝期に盛んに行われました。
享保期の新田開発は、幕府の年貢増徴策によって行われました。
この時期には9つの新田が開発されました。庄内牧下野の南部と上野の南部が開発の対象となっていました。
庄内牧は3期の新田開発で、27新田、石高4,262石2斗5升9合5勺、反別1,111町5反5畝5歩が開発されました。
これで、庄内牧の全域は開発されたと見られています。
なぜ庄内牧と言われているかといいますと、ここは庄内領だったからです。
花井神明神社の「下総国葛飾郡庄内領花井新田」と石に彫られていることから確認できます。
享保8年に一本椚牧は中野牧に吸収され、庄内牧は新田開発のため、消滅したので5牧となりました。
庄内牧(野田の小金牧)2
江戸後期に庄内牧は消滅しましたが、享保6年までは存在しており、古代には、長州牧があったとする説もあるくらい古くからあった牧です。庄内牧の新田開発は、林畑新田であって、新田開発とは名ばかりの、以前の牧場と何ら変哲のない山林であったと考えられています。
野馬にしても庄内牧時代の野馬が相変わらず生息していて、里入りしては村々から追い返され、これをまた他の村々が追い返すという状態でありました。
そのうちに馬の数も増えて宝暦3年(1753年)には野田町・上花輪村・中野台村・堤台村・桜台村・清水村にも野馬の侵入があったため、野馬除土手を田沿いに築きました。
それでも、船戸・中里、果ては、関宿辺りまで野馬が出没するという事態になっていました。
岩本石見守がこの長年に亘る多くの農民の願いであった越馬、里入り馬を上野・高田台両牧へ野替えすることによって、農耕被害を防止した業績は感恩碑建立にも見られるように、農民にとっては、真に神仏のような善政そのものであったといえるでしょう。
野馬除感恩塔(中里・愛宕神社)は野馬の里入り防止に配慮を加えてくれた石見守に対する感謝の記念碑です。
この他に野田市船形に一基建立されています。
野馬除感恩塔には「石見守 寛政十一未(1799)十二月吉日 御野馬内入不仕民祝 中里惣村中」と刻まれ、船形・香取神社の寛政12年(1800年)の感恩塔とともに、当時の小金牧野馬奉行(長官)だった岩本石見守に対する感謝と庄内牧の所在を今に伝える貴重な史料になっています。
上:野馬除感恩塔(中里・愛宕神社)
左:岩本仰喜謝恩の碑(船形・香取神社)
参考文献
著者 | タイトル・出版社など |
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相原 正義 *所蔵無し | 柏 ―その歴史・地理― 2005年 崙書房 |
市山 盛雄 | 千葉県野田郷土史 1958年 長谷川書房 |
青木 更吉 | 野間土手は泣いている―小金牧― 2001年 崙書房 |
河野 達治 | 房総の牧 第2号 1984年 房総の牧研究会 |
河野 達治 | 房総の牧 第3号 1985年 房総の牧研究会 |
鈴木 国郭 | 小金原今昔 1979年 崙書房 |
佐藤 真 | 野田郷土史 1980年 歴史図書社 |
佐藤 真 | のだし―歴史のなかの野田― 1981年 聚海書林 |
野田市郷土博物館 | 野田と下総の牧 1988年 野田市郷土博物館 |
市内ガイドブック 編集委員会 | 野田紀行 1994,1999,2005年 野田市 |
松戸市文化ホール | 小金牧と御鹿狩 1978年 松戸市文化ホール |
松下邦夫 | 近世下総牧の研究(松戸市史中巻抜刷) 1978年 |
大田 次男 | 現代語訳成田参詣記 1998年 大本山成田山新勝寺成田山仏教研究所 |
中路 定俊 | 成田名所図会 1973年 有峰書店 |