「渋沢青渕翁 野田観桃記行」について
令和3年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一が夫婦で野田を訪れたことがあるのは、ご存じでしょうか?その様子が描かれた「渋沢青渕翁 野田観桃記行」(以下「記行」)という史料があります。
野田町へ随行した大澤正道氏が書いたものを、興風会図書館長も勤めた佐藤眞氏が書写したものです。
複製が郷土資料コーナーにあり、全ページをご覧いただけます。
(複製)渋沢青渕翁 野田観桃記行
野田までの道のり
渋沢栄一が野田を訪れたのは、明治39(1906)年4月6日。「記行」に書かれた佐藤氏の「後記」では当時、渋沢栄一は68歳。勲二等旭日重光章を受勲された5日後である、と補足しています。
「記行」は書き手である大澤氏が合流する日暮里の停車場から始まります。
7時11分の下りに乗り、日暮里、三河島、三ノ輪を経て北千住へ。
北千住から総武線汽車に乗車、10時20分に越谷で下車。
腕車(人力車)で江戸川へ。そこから船で江戸川を渡って野田に入っています。
野田までの道のりを読む(記行 p5-7 活字起こし)
野田での行動
「記行」には渋沢氏一行の野田観光の様子も描かれています。野田市立図書館で所蔵している当時に最も近い詳細な地図は「千葉県野田町全図(大正4年刊)」です。
クリックすると拡大画像でご覧いただけますので、一行の足跡を辿ってみましょう。
- 舟を渡り終えた後、茶店で小休憩
渡った場所や茶店の詳しい記述はありません。大正4(1915)年の野田町の地図には「渡場」の記述があります。ここから野田へ入ったのかもしれません。 - 高梨兵左衛門氏の邸宅(現在の「上花輪歴史館」)
地図上では「高梨本店」と記述されているようです。庭園が素晴らしく、庭にある古い梅の木は保科正之に由来する歴史のあるものだ、と記述されています。 - 茂木七郎右衛門氏(柏屋茂木氏)の造醤場(醤油工場)
地図には、柏屋醸造場が「高梨本店」の周りにいくつもあります。どちらへ行ったのかは、「記行」からは判断できません。 - 愛宕神社
醸造場見学の後は、愛宕神社を訪れています。愛宕神社の祠の彫刻の見事なこと、至徳泉や、境内の勝軍地蔵について、触れられています。
愛宕神社での様子のを読む(記行 p20-22 活字起こし) - 座生沼
愛宕神社からいったん街中をまわり、その後、座生沼に行ったようです。
この地図の外側です。道中も麦畑と桃の花が見事なことが記述されています。
座生沼では、三艘の舟を浮かべて宴会を催しました。園内の迎賓館「聚楽館」を訪れた記述も見ることが出来ます。
もう一つの野田観桃記
渋沢栄一が野田の訪れる13年前の明治26(1893)年、宮本鴨北という人が野田を訪れています。この様子は「野田観桃記/宮本鴨北著」に描かれています。
実は渋沢栄一も野田を訪れる際に、この本を持ち歩いていました。
この本には当時の座生沼の様子が挿図で書かれています。
野田観桃記 宮本鴨北/著(pdfファイル)約15MB
こちらも興風図書館郷土資料コーナーで複製本がご覧いただけます。
漢詩
大河ドラマの中でも渋沢栄一が漢詩を読む場面がありますが、野田を訪れた際に渋沢栄一が作ったらしい漢詩が青渕未定稿として「記行」の巻末に掲載されています。 (青渕は渋沢栄一氏の雅号)
汽車中望冨山
偸得春晴一日閑車馳香霧彩雲間不嫌野井観天識先自窓前望富山
野田途上即事
花汀柳岸緑連紅両後江村曲径通好是林梢青盡處筑波遥在淡雲中
鎖鴎湖舟中偶成
畫船載酒醉春風四顧水光野不窮最愛軽帆依岸處桃花影碎細漣紅
飲聚楽園
雅宴相逢郷曲豪碎来携乎共愛高一村依約夕陽外映水紅雲即是桃
偸得春晴一日閑車馳香霧彩雲間不嫌野井観天識先自窓前望富山
野田途上即事
花汀柳岸緑連紅両後江村曲径通好是林梢青盡處筑波遥在淡雲中
鎖鴎湖舟中偶成
畫船載酒醉春風四顧水光野不窮最愛軽帆依岸處桃花影碎細漣紅
飲聚楽園
雅宴相逢郷曲豪碎来携乎共愛高一村依約夕陽外映水紅雲即是桃