寛文5年野田町絵図
「野田町」と言う名称が入った絵図としては、市内最古のものです。「村」が成立するようになった頃、地理的に隣村との境界が判然としない所が少なくなく、農民との間で野境界論争も激しくなったので、「村絵図」 を作成するようになりました。
この絵図もこのような争いを絶つために寛文5年(1665年)野田村と山崎村との境界を明らかにしたものです。
画像データ | 年代 | 名 称 |
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寛文5年 1665年 |
寛文5年野田町絵図 サイズ 7,415KB |
天正文書
旧野田町(野田町、清水村、中野台村、堤台村、上花輪村)は、平安・鎌倉時代以降、下総国葛飾郡下河辺荘庄内領に属し、「野田郷」と呼称され、下河辺氏の支配を受け、次いで古賀城主足利氏の属将簗田あるいは野田両氏の支配下に置かれた。画像データ | 年代 | 名 称 |
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天正3年 1575年 |
野田郷不入御朱印状 (清水文書 01-082) 141KB |
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年代不詳 | 浅野長吉、木村一連署添状 (清水文書 01-052) 253KB |
岡部文書
豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼした後、天正18年徳川家康が関東八ヶ国を統一して以来、葛飾郡庄内領鳥郷山崎に入部した岡部内膳正長盛(緯・康綱)の統治下に入った。長盛は、翌19年堤台に築城して移り住み、慶長14年丹波国亀山城に移封となるまで約20年間、各種の法度を定め村治の回復に努めた。岡部康綱法度は百姓共に対して、すみやかに居住地に帰り、安んじて農業に励むならば諸役に恩典を与えることを申し渡している。
画像データ | 年代 | 名 称 |
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文禄年間 | 岡部長盛定書 (清水文書 01-076) 218KB |
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文禄年間 | 岡部康綱法度 (清水文書 01-077) 224KB |