野田の戊辰戦争1

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1.幕末における関宿藩
2.上野戦争
3.上野戦争後の関宿藩
関連所蔵絵図解説
参考文献

幕末における関宿藩―久世紛争―

幕末・維新の激動期、関宿藩は勤皇派と佐幕派、開国論者と攘夷論者が鋭く対立して紛糾を極めた。
明治元年4月9日、4万8千石の関宿藩は、会津藩からの脱走者が城下を通行する時は援助するようにと会津藩の役人から申し込まれた。これにどう対応するかで藩内は、勤皇・佐幕の両派が鋭く対立した。
藩主が幼少病弱であったため、藩内は極度に動揺した。元家老の杉山対軒らの勤皇派は、脱走者を撃って勤皇の実行を示そうとした。一方、元家老の木村正右衛門らは、逆に脱走者と連合して徳川家への報恩の意思を示そうとした。
藩主の指導統率力が弱く、2派に分かれた重臣らは藩主広文の争奪を展開した。
4月20日に岩井で官軍と旧幕府軍の大きな戦争があり、木村・丹羽らの佐幕派は一計をもって藩主を連れ、関宿藩から脱走した。その一部(名前が判明している者は96名)が上野山内の彰義隊に合流し、「卍字隊」(萬字隊)と称して官軍と戦った。


庶民の状況―官軍と旧幕府軍の争いの元で―

当時の野田には、江戸・利根川両河川筋に浪人などが横行し色々な理由をつけて豪農や豪商(関宿、境町、西宝珠花などの廻船問屋や野田の醸造家達など)を脅迫して金穀を略奪した。
醤油醸造業者らの記録では、文久3年(1863年)5月26日に5,000両を要求され3,500両を支払ったとある。また、下総・常陸諸村の名主組頭らが、略奪狼藉の顛末を幕府に訴えるなどもしている。
諸人成田山参詣之図1 諸人成田山参詣之図2
諸人成田山参詣之図(参考所蔵絵図)

なお、幕末の関宿藩史については、近年見直しが行われており、
千葉県立関宿城博物館の「関宿藩と関宿(外部サイト)」の「動乱の幕末」に、詳しく掲載されています。
また、「動乱の幕末」で紹介されている「亀井家仕宦録」については、
当館所蔵「近世房総と朝鮮国」で翻刻や解説をご覧いただけます。
2014/1/23 追記
>>2.上野戦争

上野戦争―関宿藩士の活躍―

関宿藩の佐幕派の一部は藩主に殉ずるとして彰義隊に加わった。卍(萬字)が久世家の替紋であったのでこれに因んで、卍字隊(萬字隊)と称し、奥原秀之助が隊長となり、開戦当日は彰義隊の近藤武雄が実践の指揮をとった。
彰義隊の組織は一組を25人とし、組毎に組頭、副長、伍長を置き、その二組を束ねて隊長一人を置いた。隊号は、本隊を1番より18番までとし、付属隊として歩兵隊、砲兵隊があり、別に各藩の脱走者で組織した遊撃、純忠、臥竜、旭、神木、浩気、猶興及び久世藩の萬字隊などがあった。これら諸藩の脱走者の中で久世藩の人数は最も多勢であって、久世紛争が深刻で藩臣の動揺が大きかったことを示しているといえるだろう。
5月15日午前6時半開戦になり、萬字隊は山王台に陣を布いた(現在の西郷隆盛像の付近)。上野山内の周囲の八門(黒門、新黒門、穴稲荷門、清水門、車坂門、屏風坂門、谷中門、新門)があったが、当日の戦闘では、正面の黒門の攻防が最も激烈を極め、官軍は中々これを撃破することができなかった。これは、山王台に陣した萬字隊が黒門口の官軍に盛んに砲撃を加えたからで、官軍は死傷者が続出し、出退きわまる状況であった。そこで官軍は、兵力を増強し、死力を傾けて、まず、山王台の萬字隊を攻撃し、昼過ぎには彰義隊は総崩れとなり、敗北した。
死傷者の数は、卍字隊(萬字隊)のうち5名が戦死、11名が傷を負ったと、宇野田鶴雄・懐中日記に記録されている。尚、この上野戦争には原田左之助(新撰組)も、会津へ行く永倉新八らと野田市山崎で別れ、江戸へ引き返し戦っていた。しかしこの戦争で命を落としている。
本能寺合戦之図1 本能寺合戦之図2 本能寺合戦之図3
本能寺合戦之図 (関連所蔵絵図解説)

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上野戦争後―関宿藩士の行方―

顕彰碑 上野戦争で敗れた佐幕派藩士の19名は、さらにこの後会津藩の若松城へ向かい、官軍に抵抗した。
しかし同城も落城し、山中に逃れた者もいたが大部分は捕らえられ、一旦長州藩に預けられた。
そして、「罪科一等を減ぜられ、居宅謹慎」を命ぜられ、関宿藩へ引き渡された。
久世藩の勤皇派の中心人物であった杉山対軒は、明治2年4月20日、江戸から帰藩の途中反対派の刺客によって暗殺された(現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町並塚)。
顕彰碑は市内の浄土宗光岳寺にある。
一方、佐幕派の中心人物であった木村正右衛門は、上野戦争の敗北後、藩主広文とともに、上野山内を脱走して佐倉に逃げた。
そして、沼津市へ移り、同市の兵学校教頭となった。
氏名を山田大夢と改め、静岡県師範学校の初代校長も務めた。

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関連所蔵絵図解説

諸人成田山参詣之図 よし藤画 明治元年

諸人成田山参詣之図1 諸人成田山参詣之図2
(左 2,583kb) (右 2,512kb)
一般の庶民が、成田山詣でをする姿を借りて、戊辰戦争下の関東地方における旧幕府方と新政府方の争いを風刺した錦絵。
左側の浪花講中ののぼりを立てているのが、新政府側で、江戸講中ののぼりを立てているのが旧幕府側です。譜代藩、旗本領の多かった関東地方は、侵攻してき た新政府軍と脱走した旧幕府軍との争いが、県内では、船橋・市川、その他では、岩井、宇都宮、小山などであり、砲声が轟くなど不穏な空気が漂っていまし た。清水村の名主渡辺善左衛門の残した「徳川家落城乱世之年萬控」その雰囲気をよく伝えています。
絵師は、歌川芳藤(文政11~明治20)。歌川国芳の門人で、画号は芳藤、よし藤。画姓は一鵬斎を用いました。嘉永元年頃より作画活動をはじめ、横浜絵・ 武者絵・おもちゃ絵・双六などを描いて活躍しました。

本能寺合戦之図 さくら坊芳盛画 明治2年

本能寺合戦之図1・2,626kb 本能寺合戦之図2・2,598kb 本能寺合戦之図3・2,541kb
(左 2,626kb) (中 2,598kb) (右 2,541kb)
  上野戦争を明智光秀の織田信長を襲撃した本能寺合戦に名を借りて描いた錦絵。右手の黒門口はすでに破られ、新政府軍は既に奥まで侵攻しています。右手の石 段を登ると萬字隊が陣を布いたと言われる山王台です。上野戦争は、慶応4年5月15日(現在の暦にすると7月)の未明に始まり、午後には彰義隊の壊走で勝 敗が決しました。正門である黒門口には、新政府軍の精鋭部隊である薩摩藩の部隊が配属され、彰義隊側と激しく戦いました。また、本郷台に砲座をしいた佐賀 藩のアームストロング砲の威力も強力であったと言われています。
絵師は、歌川芳盛(天保元年~明治18年)。歌川国芳の門人で、名は、作蔵。一光斎・桜ん坊などと号しました。武者絵や明治の風俗を得意とし、河鍋暁斎と も交際がありました。


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参考文献

著者タイトル・出版社など
大野要修「近世における関宿城主を中心とした関宿年表ⅱ」
関宿町教育委員会「関宿町町史研究 第1号」関宿町教育委員会
林 保
大野要修
「幕末における関宿藩 ―戊辰後経歴(その1)」
「近世における関宿城主を中心とした関宿年表ⅱ」
 関宿町教育委員会「関宿町町史研究 第2号」関宿町教育委員会
林 保
大野要修
「幕末における関宿藩 ―戊辰後経歴(その2)」
「近世における関宿城主を中心とした関宿年表ⅲ」
関宿町教育委員会「関宿町町史研究 第3号」関宿町教育委員会
奥原 謹爾「関宿志」1973年 関宿町教育委員会
野田市史編さん委員会「稿本野田市年表 2」1971年 野田市
野田醤油株式会社「野田醤油株式会社二十年史」 1940年 野田醤油株式会社
山崎 有信「彰義隊戦史」1997年復刻
木村 礎「藩史大事典 第2巻」 1989年 雄山閣出版
須田 茂「房総諸藩録」 1985年
班目 文雄「江戸東京・街の履歴書 2」1989年 原書房
子母沢 寛「新選組遺聞」 1977年 中央公論社
菊地 明「新選組」2001年 ナツメ社
川田 寿「江戸名所図会を読む 」1990年 東京堂出版
川田 寿「江戸名所図会を読む 続」1995年 東京堂出版
千葉県教育庁文化課「日光東往還」1987年 千葉県教育委員会
白石 つとむ「悠悠逍遥江戸名所」1995年 小学館
佐藤 真「のだし」 1981年 聚海書林
竹内 誠「東京都の歴史」 1997年 山川出版社
竹内 誠「江戸切絵図」1995年 人文社
人文社第一編集部「幕末人物・事件散歩」 1995年 人文社
山形 紘「東葛戊辰録」1988年 崙書房
小川 潔
*所蔵無
「彰義隊墓所で」
「地域雑誌谷中・根津・千駄木」73号 2003年 谷根千工房

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