諸人成田山参詣之図 よし藤画 明治元年
一般の庶民が、成田山詣でをする姿を借りて、戊辰戦争下の関東地方における旧幕府方と新政府方の争いを風刺した錦絵。左側の浪花講中ののぼりを立てているのが、新政府側で、江戸講中ののぼりを立てているのが旧幕府側です。譜代藩、旗本領の多かった関東地方は、侵攻してき た新政府軍と脱走した旧幕府軍との争いが、県内では、船橋・市川、その他では、岩井、宇都宮、小山などであり、砲声が轟くなど不穏な空気が漂っていまし た。清水村の名主渡辺善左衛門の残した「徳川家落城乱世之年萬控」その雰囲気をよく伝えています。
絵師は、歌川芳藤(文政11~明治20)。歌川国芳の門人で、画号は芳藤、よし藤。画姓は一鵬斎を用いました。嘉永元年頃より作画活動をはじめ、横浜絵・ 武者絵・おもちゃ絵・双六などを描いて活躍しました。
本能寺合戦之図 さくら坊芳盛画 明治2年
上野戦争を明智光秀の織田信長を襲撃した本能寺合戦に名を借りて描いた錦絵。右手の黒門口はすでに破られ、新政府軍は既に奥まで侵攻しています。右手の石 段を登ると萬字隊が陣を布いたと言われる山王台です。上野戦争は、慶応4年5月15日(現在の暦にすると7月)の未明に始まり、午後には彰義隊の壊走で勝 敗が決しました。正門である黒門口には、新政府軍の精鋭部隊である薩摩藩の部隊が配属され、彰義隊側と激しく戦いました。また、本郷台に砲座をしいた佐賀 藩のアームストロング砲の威力も強力であったと言われています。絵師は、歌川芳盛(天保元年~明治18年)。歌川国芳の門人で、名は、作蔵。一光斎・桜ん坊などと号しました。武者絵や明治の風俗を得意とし、河鍋暁斎と も交際がありました。